小学校3・4年の時の先生は非常に特徴のある人で先生がトップに立ち、いじめなどないクラスを作り上げていた。
信じられないけど本当にこの先生に受け持ってもらった2年間はいじめなど存在しなかった。
1,2年生でいじめっ子だった子も先生という存在が作り上げる「みんな仲間」という観念に組み込まれ(まぁそうなるまでに先生といじめっ子の戦いはあったが)いじめをやめた。
しかし見事に5年生になり先生が変わるといじめっ子はいじめっ子に戻り、再びカオスになった。
そんな小学生中学年の運動会、神楽の出し物をした。
先生は絶対で先生のセンスの中、上手くできた子から練習から抜けられる。
お目にかなわぬならば踊り続けるまで。運動神経がよくなかった私は中盤になっても踊りから抜け出させなかった。
「もっと動いて。もっと扇子、鈴を見てっ」
その言葉を信じてしっかりと動き、扇子と鈴を交互に見る。
一生懸命踊って、どうにかその組から抜け出せた。
運動会も無事終わり後日談としてよからぬうわさが流れた。
「必死に踊りすぎ、真実。」
まさかっ・・・・
一生懸命やったがためにメンツや格好など忘れていた。無邪気で無垢な私・・・・はその踊る姿を笑われる的となってしまった。
恥ずかしいけどどうしようもできない、一生懸命に踊るように言われたから一生懸命やったのに。
ならばどうすればいい?
小学校6年生の時、再び踊ることになり、いじめっ子はわざとチャチャ入れて、必死な私の真似をしてくる。
もうこの時は先生も違うし、怒られることはないから、いじめっ子の調子のりは半端ない。
いやなだぁ、もう同じ思いするの。
だから必死じゃなくて適当に踊ったのだ。
そして私は一生懸命やる恥ずかしさに出会った。
私はのめり込みやすいと思う、自分がやりたいと思ったことに。
カラオケでもそう。
うまく歌いと思うから、感情を込める。
初めて一緒にカラオケに行った友人に「入り込んでいるねぇ」と言われて、「えっ、いけないのか?」と思ったことがある。
まぁそれは一度きりで、なんだかんだのめり込む人のほうが多かった。
自分がノリノリで真剣にやっているのを引いた目線で見られてしまうと我に返り自分を恥じってしまう。
他人の視線を気にする日本ではそれはもう強いことだろう。
必死にやっていたり、頑張っている子にチャチャを入れて、皮肉を言う。
本当は自分が同じほど本気で取り組めなかったり、うらやましいという気持ちの裏返しも含まれていると思う。
だから高校生から20代全般までは「がんばることって格好悪い」と思うようになってしまった。
でもやりたいことは勉強したり、お店を開けるように頑張るけど、本気の自信を人前で見せるのは苦手になってしまった。
ミーアと一緒になり彼に二年間もめげずに口説かれて始めた合気道。
彼は「マフィアフェイス」と呼ばれるほど、攻め込むときにしっかりと心を込めてくることがある。
それがたまに真剣すぎて怖いとも言われるが、彼は気に入っている。
彼もどちらかというと変なところで真剣になりやすい。
それを突っ込まれても彼は全然平気。
彼は自分をちゃんと持っているから。
自分をちゃんと大切にしているから、自分がやりたいことをちゃんとできて、認めている。
だから一緒にいて安心できる。
一緒に真剣になれる。
さらに合気道を真剣にやっていればやっている人ほど一生懸命打ち込み、それが素の姿であり、認めているのがよく伝わる。
気づけば道場に行けばそんな人ばかりで、感化され自分ももっともっとうまくなりたいと思えるし、言えるし、行動できる。
安心して一生懸命になれる。
朱に交われば・・・・だ。
朱に交われば自分を取り戻す・・・だ。
真実
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真実は「葛藤の解放と純粋な自己なる創造の現実化」をテーマに日々、生きている気ままな幸せ人です。 瞑想を通し、感じたこと、学んだこと日々の経験から感じたこと、学んだこと。 様々なことを様々な形で自分の変化と共に歩む真実なりの方法をご覧ください。
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